2022年のMー1グランプリは、ウエストランドの優勝で幕を閉じました。
悪口漫才と言われるウエストランドの優勝は、おもしろかったので驚きはないのですが、この時代にこのネタで勝負し受け入れられたことに、「ふ~む そうきたか」と思ったものです。
今回は、メディアで流れる言葉や行為について何かと厳しいこの時代に、際どいながらも受け入れられた要因を考えてみました。
毒舌の系譜

古い時代のことはよく知りませんが、やはり毒舌と言えば「ビートたけし」を思い出します。鋭い切り口で捲し立てる漫才で、鉄板のスタイルを築いていました。
ウエストランドの事務所の先輩である「爆笑問題」も、けっこうな毒舌です。
機知に富んだ毒をさらりと吐き、相方が突っ込みフォローをするスタイルは、分かりやすく明快で、長きに渡り人気を維持しメディアに出続けているコンビです。
こうした破天荒なだけではない、洞察の上での違和感に基づいて吐き出される毒舌は、お笑いの大きな要素であり続けてきました。
しかし、昨今はこうした批判を含む言動に厳しい時代になってきており、大きく失速してきた分野とも言えるかもしれません。
「うっせぇわ」姿のないAdo

音楽の世界でも、毒舌というか、社会の様々なしきたりや常識に反発する過激な歌は、いつの時代にも歌われてきました。
近年、印象的だったのは「Ado」の登場です。
「うっせぇわ」は、視聴者である若い世代を超えて、広く世間の話題になりました。
衝撃的な言葉遣いでありながらどこか納得してしまう歌詞は、批判よりも大きな共感を呼んだように思います。
そして、この内容の歌でありながら広く支持されたのは、Adoが生身の人間として歌ったのではなく、仮想世界での事のように表現したことも、大きかったと感じます。
生身の人間であればきついと思う内容でも、人物が出てこない、姿を見せないことによって、聞く側も歌う側にも許容されるものがあったのだろうと思います。
言いにくいことを言う際に「匿名」を使うのと同じように、対象が見えないので反発のしようがない、という側面があります。
コンピュータの利用が一般的になった現在、サイバー空間での世界が広がり、Vtuberとして活動したり、音楽の世界でもボカロでの表現が台頭したりしています。生身ではありながら正体を明かさずに活動するアーティストもいます。
ネットを通じて、世の中に広く自らの存在を認知されようと活動する人々がいる一方で、個人の人格は隠し、作品として作られたものの中だけで活動する人たちも、今後増えていくと思います。
キャラクターとテクニック

漫才においては、将来バーチャルな世界が展開するのかは分かりませんが、少なくとも現状の漫才では、生身の人間が毒を吐いています。
芸人の皆さんの評価は世間の常識では計れないものですが、メディアに出る以上は、ある程度の規範の範疇で活動することが求められます。
M-1審査員の松本人志さんは、講評の中でウエストランドに対し「こんな窮屈な時代でも、テクニックとキャラクターさえしっかりあれば毒舌漫才も受け入れられる」と語っていたのが印象的でした。
ウエストランドの漫才は、「それ、あるある。私も思っていた」という違和感からの共感に基づく笑いです。
悪口を言ってはいても、世間における強者には見えず、ややもすると愚痴のように卑小な視点で毒を吐き続け、相方も否定はしますがフォローも大きな反発もなく、ぼやきのような悪口の中で笑いを取っていきます。
そのライン取りを間違えると笑えなくなることもわかっているので、話題は微妙に厳しいところを避けていて、視聴者の反発にまでならないように選んでいます。
そうして、けっこう酷いことを言いつつも、「まあいいか、そうだよな」という『共感』に繋げていきます。そして、見ている人たちを、いつの間にか笑いの『共犯』に巻き込んでいく・・・。私も完全に共犯です。
ネタの中で「M-1には夢がある」と言っていましたが、今回のM-1も、夢を掴むために全力で向かうコンビたちの渾身のネタは、見応えがありました。
そしてその結果は、図らずも今の時代を映し出していた、と言えるのかもしれません。

