【ブログのよさ】動画を使わない理由 そして子どもにとってのネット環境は?

最近のユーチューブにはありとあらゆる情報があふれており、何かを知りたい時に大変参考になります。

動画の情報量は圧倒的で、「百聞は一見にしかず」のことわざの通り、困っていたことが本当によくわかることも多々あります。

このブログの内容も「動画の方が分かりやすいだろうな」と思う部分もありますが、今のところ動画を使用する考えはありません。

今回は、ブログで発信するよさを書いていきたいと思います。

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なぜ動画ではなくブログなのか

このブログ本来の趣旨から外れた内容ですが、正直なところコロナの影響で出かけることを控えているために、ネタ不足という側面があることは否めません。あしからず。

動画を利用しない理由は、まず一つに動画編集は時間がかかるという点があります。制作には機材も時間もブログよりも多く必要になります。

趣味で不定期に更新しているブログなので、時間的なものはあまり気にしませんが、実際にはそういう消極的な理由ばかりではありませんブログにはブログの良さがあるからです。

ブログの利点

とりあえず情報をまとめて知らせるには、文字や図表の方が早く分かりやすい場合もあります。

ブログの記事なら、全体をざっと見渡して、およその様子を捉えることができます。よほど大きな記事でなければ、1分もかからない作業でしょう。

ユーチューブでも、詳細なお知らせは概要欄を使うことが少なくないですね。

映像や音声は流れて行ってしまうものなので、しっかりと確かめたい時は、文字情報の方がありがたいことも多いです。

文字は想像を膨らませる

私の世代はネットが広く普及する以前に教育を受けたため、文字文化の中で育ったという状況にあります。

本などの文字情報は想像を膨らませ、自分なりのイメージをもたせてくれます。また雑誌や新聞は自分の目当ての記事ばかりではなく、雑多な様々な情報が目に入って、それらに触れる機会にもなりました。

ブログは、そうした目当てとする情報に付随したその他の情報を載せたり、自分なりの解釈をする余地をより多く含ませることがしやすいように思います。読者にはそういう部分を大事にしてほしい思いがあります。

必要な情報がある程度わかるけれども、すべてを伝えるわけではない、というのが基本的なスタンスで、旅においては「思っていたのと違う」という、その人なりの感触があるものだと思います。

動画の弱点

動画の場合、じっくりと見なければ情報を得られない場合があるので、どうしても拘束される時間が長くなる傾向があります。

ユーチューブなどは情報が効率よくまとめられている反面、その他の情報について「寄り道している感じ」はあまりありません。

意図して選択した事柄だけを目にすることができるネットの情報世界では、よけいなものに触れたり、意図しないいろいろなものが目に入ってくるということは自然と排除されていきます。

テレビが伝えるもの

テレビなどの動画情報は、言葉より信頼性が高いと見られがちなので、意図に沿った都合のよいところだけを切り取って編集した映像を見たとしても、抜け落ちている部分を想像することは少ないでしょう。

自然を相手にした描写ならまだよいでしょうが、人間ならカメラが入ればその姿は本当の日常ではなくなるだろうし、都合の悪い部分をカットすれば本当の姿を伝えていることにはならないのではないかと思います。

実際ドライブや登山の様子は動画の方がはるかに分かりやすい場合がありますが、このブログでは映像は写真のみで動画は使用していません。

一見おもしろくはないですが、個人の思いを入れすぎず、目に入ったものを淡々と紹介するスタイルがよいのかな、と思います。

動画ですべてのルートを記録し紹介しても、実際の現地は風が吹き花が香る場所だったりします。それは自分自身で感じるもので、実際の旅は動画を追体験をするようなものではないでしょう。

多くの情報が得られるけれど、それはやはり実際の一部でしかない。歩いたり走ったりするのは自分自身で行ってほしいと思います。想像を膨らませる余地はやはり必要だと思います。

好みは人それぞれ、自分なりのものを見つける手がかり程度でよいと思っています。

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子どもとネット文化 危惧することは

「ローマ人の物語」のキーワード

「ローマ人の物語」(塩野七生 著)という古代ローマの黎明から帝国の滅亡までの数千年に渡る歴史を描いた大作がありますが、その中に繰り返し出てくる文章があります。

「人は見たいと欲する現実しか見ていない」

ローマの歴史から人間の有様の真実を見い出していく作者が、この長い作品の中で繰り返し述べているのがこの言葉です。

ローマの興亡はそうした人々が紡いできたドラマであり、それはローマに限らない人間としての性なのでしょう。

自分に都合のよいもの、好ましいものに目が向くのは当然のことですが、それだけを見ていたのでは見失ってしまうものも多い。

気の合う仲間とだけつきあい、好みの情報だけをネットから得て暮らしているのでは、多種多様な価値観を認め合う世界観が生まれにくいのは避けられないでしょう。

子どもたちの世界では

今は子どもたちも、コンピュータやネット環境を使うことが常識になっています。大変便利だし、これからの時代になくてはならないものでしょう。

現在の教育現場では、主体的であることを重視し、自ら目的をもって調べていくことが求められています。

コンピュータはただ眺めていても、そこからは何の情報も出てきません。自分が見たいものを入力して検索しないと、何も出してはくれないのです。

子どもの時からずっとこうしたピンポイントでの学びの中で大きくなっていったら・・・。大事な能力であると同時に、それだけでは欠落してしまうものも少なくないように感じます。

見えていても見たくないものを見ないのが人間なのだから、目に入るものがさらに絞られていけばどうなるのだろう・・・。関心をもつ世界が広がらず、視野が狭いということにならないようにと願っています。

コロナ後の時代に

コロナウイルスの生存戦略は、人と人との接触が媒介する感染拡大にあります。なんとも巧みな罠のようになっています。

コロナへの対応は、とりあえずは感染による身体的な危険を回避することですが、もっと長い目で見ると、人間の生き方にまで影響を及ぼすものになると思います。

人との距離を取るという物理的な問題に終わらず、生身の人間というリアルな感覚の希薄な画面上などで、焦点が絞られた会話を中心としながら効率よく人と関わっていく、という時代がやってくるのでしょう。

コロナが来ようが来まいが、この社会の流れは変わらないと思うしどうしようもないことなのですが、意図しないことであっても、様々なものを目にし、思い考え、行動する機会を大切にしてほしいと思います。

コンピュータが人間が見たくない現実まで適切に制御してくれる日まで、野に出て風を感じる子どもたちを増やしていきたいと思うこの頃です。